50代男性のセミリタイア日記

50代男性のセミリタイア日記です。

卒業した小学校が廃校になっていました。

この記事を読んで頂いている皆様の卒業した小学校はまだありますか?
ブログを開始するにあたり卒業した学校を調べていると、母校の小学校が廃校になっていることを知りとても悲しくなりました。


40年以上前ですが入学当時は学校の一部は木造校舎でした。
当時は第2次ベビーブーム時代で子供は田舎でも溢れかえっており、入学した小学校は在校生の増加に対応するため地域の中学校を小学校に転用したものでした。
(中学校は別に新しく作られ、そちらに当方も通いましたが)
一学年3クラス×40人=120人/学年×6年=700名超の地域でも大きな小学校でした。
田舎の少子化が進んでいることは知っていましたが、40年後に廃校になるとは思っていませんでした。


地方都市はどこも少子化による学校の統廃合が進み元気な子供たちの声がますます減っています。
少子化はさらにコロナで追い打ちがかかっています。
子供達が伸びやかに育つ社会を願ってやみません。


前回から話はそれましたが今回も読んで頂きありがとうございました。


当方の経歴について(2) 高校への進学その1

前回高校で理数科に進学したことを書きました。
人生で大きな転機となった決断でしたので当時のことを振り返りたいと思います。


田舎でしたので高校も多くなく、消去法で進学先は自転車で通える唯一の高校(とは言え7Km ありました)に決めていました。
普通科が主体でしたが、特に進学校ではなく就職組も3割程度いたかと思います。
理数科(定員40名)は地元国立大学への進学を前提に授業しており、中学では学年上位(TOP10位/学年300人)のみが進めるところでした。
自分はTOP10に入れるほど成績が良かったわけではなく、通常ならワンランク下の普通科に進むつもりでした。


しかし中学の進路相談で担任に慮って将来は学校の先生になりたいと言ってしまったのが理数科受験の切っ掛けになりました。
正直何になりたいとかまじめに考えていませんでしたが、田舎でしたので公務員か、剣道が好きでしたので警察官になるか程度に考えていました。
教員になるには大学に行って教師免許を取る必要があることを指摘され、数学の成績はよかったので大学進学を前提に理数科の受験を勧められました。


話はそれますが中1の頃国語の成績はボロボロでしたが、中2&3の担任が国語の先生で新聞のコラムを毎日読んで感想を書く宿題をやっているうちに成績は普通程度になりましたが、この後の大学受験も含めずっと国語は苦手でした。


希望先の高校は理数科を落ちても、第2希望で普通科には進める受験制度になっており、まあ落ちても普通科に進めるならと思い理数科を受験しました。


結果合格したのですが、受験した理数科は定員割れで名前さえ書けば合格(言い過ぎかも)でした。
当時は景気も良く地元で仕事もあり、自分より成績上位の人も商業&工業高校に進む方もいたのも幸いしました。


すいません文章が下手でまた長くなりましたが、高校の思い出はもう少し続けたいと思います。


読んで頂きありがとうございました。

当方の経歴について(1)

自己紹介を兼ねて私の経歴は以下となります。
1971年生まれの51歳。
いわゆる第2次ベビーブーム時代です。
四国出身(うどん県)。
小中高、大学とずっと公立(国立)でした。
まあ田舎でしたので私立の学校はなかったのですが。
小・中学校勉強は上の下位で優踏生ではなかったです。
数学が得意だったのと、進路相談で将来先生になりたいとあまり考えず言ってしまい、地元の高校で理数科(卒業生の半分位は地方国立大学に進学)に進学したことが、その後の人生に大きく影響しました。
高校や大学のことはまた別に書きたいと思います。
中学まで剣道をしていましたが、高校1年のとき先輩のイジメに耐えきれず退部しました。
剣道が大好きでインターハイも目指していたので退部はトラウマになり、その後も夢で何度もみることがありました。
家庭はアル中の父親、嫁姑の仲も悪くあまり恵まれた環境ではなかったと思います。
兄弟は男3人の真ん中でした。
父親のことは周りにも知られており、自分の内向的な性格もありここでもイジメを経験しました。
取り留めのない文章になりましたが、今回はここまでにします。


読んで頂きありがとうございました。